深夜の唐津漁港
午前0時、梅雨終盤の漁港は人影もなく静まり返っていた。聞こえてくるのは岸壁に打ち寄せる波の音とアオサギの声。深夜海から吹く風は、夏とはいえ体温を奪っていく。ウィンドブレーカーはマストアイテムだ。
ここは唐津市海岸通りにある佐賀県玄海漁業協同組合市場。午前1時を過ぎる頃、次々とトラックがやって来る。その数は瞬く間に増えて行き、競り場の建物を取り囲む。シャッターが開かれると建物は煌々とした光につつまれた。
さらに待つこと1時間、真っ暗な港の奥から1艘の白い漁船がエンジン音を響かせながら岸壁へ近づいてきた。お待ちかねの第五新航丸だ。
船上のピンク色の胴長を着た小柄な女性の姿が目に飛び込んできた。その女性こそ、今回私たちが取材をした野崎清美さん(以下、清美さん)その人だ。小柄な体格にもかかわらず、船上より笑顔で手を振るその姿からは、海で働く女性の力強さが十分に感じられ、感動を覚えた。
接岸後は時間との勝負。競りが始まる3時半までに、水揚げしたすべての魚を仕分けしトロ箱に収めなくてはいけないからだ。皆汗だくで作業する。こともなげにトロ箱を抱える清美さんにひと箱の重さを聞いてみた。「10kgとは言わんですね。力で上げるんじゃないんですよ。要領です。」重労働だが、魚を仕分けるときが一番楽しいと言う。「海老が入っていたり、今日みたいに北風が吹いて良い鰆が乗ってくると、これ私の酒の肴!と言って、自分の好きな魚は持って帰ります。」といたずらっぽく笑った。
この日定置網で獲れたのは、鯵、鰆、太刀、コノシロ、ヤズ、エイ、サメ、タコ等。鯵に高値はつかなかったがまずまずの獲れ高だった。全ての作業を終えて母港の高島に帰ったのは5時前。少し仮眠をとって、9時には島のみやげ物店「宝当海の駅」で母親の千津子さんと仕事を始めていた。
つながる3世代
30歳で生まれ育った島に戻り、父清市さんの小型定置網漁を手伝うようになった清美さん。ほどなく家業を「株式会社 新航丸」と法人化し、定置網で獲れた魚の干物や観光客向けのみやげ物の販売も手掛けている。
新航丸の初代船長は今年90歳になる祖父の新平さん。風向きで魚の入りがわかるという根っからの漁師さんだ。現役の頃は妻のひとみさんと夫婦船で漁をしたものだ。さすがにもう漁には出ないが、山から竹を切って来て二人仲良く漁師の必需品「手かぎ」を作ったり、網の修繕など手掛けている。
2代目の父清市さんは15歳で漁師になった。当時唐津湾は海苔養殖が盛んで、色艶では全国どこにも負けない品質だったそうだ。小学生のころから海苔の手伝いをした清市さん。冬場だけの海苔に代わって1年中収入が見込める仕事をしなくては、いつまでたっても豊かになれないと、20歳を過ぎた頃、網の作り方から知人に教えを乞い定置網漁を始めたという。1年を通して収入を得ることができるようになった経験を、佐賀県代表として全漁連の大会でも発表。23歳でヨーロッパ7か国を回る漁業研修にも参加したという。九州一円の漁連に青年部の創設を呼び掛けて10年間会長を務めた。
そうした活動は人々の耳目を集め、40歳の時周囲に推されて唐津市議会議員となった。議会はもちろん、様々な会合に出席しながら午前0時には船に乗り定置網漁に出る生活は実に20年。その間一日の睡眠時間は3時間足らず。55年間働いてきたが、いまだに病気一つしないのは海の力の神秘だという。
人の倍も3倍も人生を楽しんでいるという親の背中を見て育った清美さん。決断力、行動力は3代目として申し分ない。
唐津湾に浮かぶ高島
ここで少し唐津と高島をご紹介しておこう。
日本三大松原の一つ、白砂青松「虹の松原」で有名な唐津市は、玄界灘を臨む風光明媚な観光と漁業の街である。
ここ2、3年は県主導のアニメやゲームとのコラボ企画、「ユーリ!!! on ICE」 や「スプラトゥーン」、「ゾンビランドサガ」等が話題となり、全国からファンが訪れている。
唐津湾に浮かぶ高島は、唐津市街の北およそ2キロに位置し、宝当桟橋から船で約10分、一日6往復の定期船と海上タクシーが交通手段となっている。
島の面積は0.62平方キロメートル、島の周囲は約3キロ、標高は169.6メートルで、頂上まで登ると唐津湾に浮かぶ小さな島々や北は壱岐までが望める。集落は島の南側にあり、現在209人が暮らしている。
島の歴史は約450年程前の天正年間までさかのぼる。時の武将・野崎隠岐守綱吉が島に入り、海賊を退治して島民を守ったが、若くして没した為に氏神様として綱吉神社に祀られた。そのため氏子である島民のほとんどが野崎姓を名乗っているのも興味深い。
明治期にはいり、島が製塩業で潤おうと、島民はお礼として神社を島の宝としてとして称え、「寳當(ほうとう)神社」と記した石造りの鳥居を寄進した。この頃より綱吉神社は宝当神社と呼ばれ親しまれてきた。
数十年前、市会議員だった清市さんが、当時の野副豊唐津市長、佐賀新聞社と共に島興しのため「宝当」という名前に着目し、神社を観光の目玉にした功績は大きい。ある島民が宝くじを買った際、縁起のいい名前にあやかり祈願したところ高額当選したことで有名となった。それ以降宝くじの高額当選者が次々とお礼参りに訪れるようになり、今では年間20万人の参拝者が島を訪れている。
定置網漁、高島の未来を語る
9月には船舶免許も取得し、3代目となる日も近いと思われた清美さんにアクシデントが襲った。取材の2日後、船上作業中に赤エイの棘が腕に刺さり、救急車で運ばれたという。傷口もなかなか塞がらず痺れも取れなかったそうだ。しかし、転んでもただでは起きない清美さん。船に乗れなかった間にこれまで漠然と考えていたことを実行に移していた。JCC(唐津ジャパンコスメティックセンター)が指導する農業グループに入って無農薬でハーブやスーパーフードのキヌア、九州大学との共同研究による奇跡の木などの栽培を始めたという。
また高島で定置網や塩づくり、および農業体験をしてみたいという人のために、空家を古民家民泊として使えるような準備も始めた。体験してもらうことで、移住者の誘致にもつなげられたらという。
佐賀県地域産業支援センターの指導を受けた太刀魚や鯵のフライ加工品は商品化、販売まであと一歩のところまでこぎつけている。今後は島の漁業、農業を守りつなげることで豊かに住み続けられる島作りに向かって頑張っていくつもりだ。