海鳥の鳴き声や船のエンジン音が、遠くの方から聞こえてきます。キラキラと反射する海面が手招きをしているような気がして近づくと、驚くほど透き通った海に目を奪われました。気持ちよさそうに小魚の群れも泳いでいます。ここは三重県尾鷲市三木浦町。人口約500人の漁師町です。
小魚の群れに別れを告げて、振り返り歩くこと数十秒。そこに、古民家を改装した三木浦町の憩いの場「織屋(おりや)」があります。時刻が正午を過ぎると、続々と人が集まってきました。人々はお食事やコーヒーを楽しみながら、世間話に花を咲かせています。
織屋を営むのは、移住者の三鬼夫妻です。漁村を体験できるようなコミュニティ施設を目指して、まずは2021年8月にカフェをオープン。現在、宿泊もできるように古民家の改修作業や体験サービスづくりに取り組まれています。
本記事では織屋を運営されている三鬼早織さん(以下、早織さん)に、移住のきっかけや漁村暮らしの魅力、織屋の成り立ち・今後について、お話を伺いしました。これからの漁師町の未来を思い描きながら。
遠洋漁業に養殖業。三木浦町で歩んだ漁師の記憶。
三木浦町は古くから遠洋漁業の町として栄えてきました。現在は、マダイ養殖や伊勢エビ漁も盛んです。
—— 漁師さん 「昔はカツオ船がいっぱいおった。稼いだお金でマグロ船ができて、定置網漁もはじまって。今はだんだん少なくなってきたな。」
と養殖歴約51年のベテラン漁師さん。織屋をよく利用する常連客です。
遠洋漁業を経験後、昭和45年にご自身で養殖業を始められました。創業当時は活餌でのハマチ養殖から始まり、現在はマダイやシマアジ、マハタを養殖されています。養殖された魚は地元の水産会社をメインに卸し、コロナの影響もあって、現在は鮮魚よりも三枚おろしをして、加工品として出荷することが多くなっています。
全国各地の漁師町で進行している少子高齢化。三木浦町もその例外ではありません。三木浦町の人口は、最盛期の約1,300人から約半分以下にまで落ち込んできています。
—— 漁師さん 「当時は養殖業者は32件くらいあったけども、今は9件しかない。」
約3年前には町内の小学校は閉校となりました。そのため、三木浦町の子どもたちは近隣の学校に通っています。のどかな風景と遠くから聞こえてくる船のエンジン音を心地よく感じる一方で、町内で子供たちの声が聞こえてこないことに住民は寂しさを感じています。
—— 漁師さん 「それでもな、三木浦は活気があるって言われる。ちょいちょい若い子もおるしね。移住者も増えてきとるからな。」
漁師町の憩いの場「マドロス」と「織屋—ORIYA—」
—— 利用客 「いやぁ、久しぶり。10年ぶりに会ったな。車は何度も見かけたことあるけど。」
お会計を済ませた二人組の女性が、庭先で談笑する漁師さんたちの輪に加わりました。さらに、注文のコーヒーを運んできた早織さんも会話に交ざり、さらに和気あいあいとした雰囲気に。
—— 早織さん 「本当にみなさん、お元気なんですよ。」
織屋は2021年8月に、新しくOPENしたばかりのお店です。地域住民と地域外のお客様の割合は6対4ほど。最近では、尾鷲市街から子ども連れで平日利用するお客様が増えてきています。
織屋の成り立ちを理解するために、少し時計の針を巻き戻しましょう。
時は2017年6月、三木浦町で親しまれていた飲食店が閉店。そこから約1年間、国道沿いのスナックを除くと気軽に利用できる町の飲食店はゼロになってしまいました。そんな状況を何とかしたいと、住民たちは喫茶店の再建を目指します。その解決作として活用したのが、地域おこし協力隊制度でした。
・地域の人に想いの場を提供する
・町外からくる人との交流の場を作る
の2つのミッションを掲げて、地域おこし協力隊員を募集。その募集に名乗りをあげたのが、早織さんでした。早織さんは2018年3月に三木浦町の地域おこし協力隊員となり、2018年6月にはカフェ「マドロス」をオープンさせました。
早織さんは、マドロスを約3年間運営。地域おこし協力隊の任期を終えた後、マドロスは新しい運営者が引き継いでいます。早織さんは三木浦町に定住。そして、2021年8月に織屋がオープンしました。
—— 漁師さん 「店がなかった時は、珈琲を飲みに尾鷲市街まで行かなあかんかった。」
2017年にはゼロだった三木浦町の飲食店。約4年間で2店舗増えました。マドロスと織屋、どちらも住民にとってかけがえのない憩いの場になっています。
20歳で初めて訪れた父の出身地。暮らしの文化に心惹かれて。
早織さんは静岡県の出身で、三木浦町は父親の故郷です。
—— 早織さん 「父はマグロ船に乗っていて、静岡県の清水という港町で母と知り合いました。三木浦と静岡県って結構繋がりがあるんです。」
両親は離婚していたため、早織さんと三木浦町とのご縁が芽生えたのは20歳になってから。疎遠となっていた親戚から成人祝いをいただいたことで、お礼を伝えるために三木浦町に訪れたのがきっかけでした。
—— 早織さん 「当時は車に揺られながら、すごいところまで連れてこられたな、と感じていました。」
大学卒業後、早織さんは海運会社に就職。持ち前の英語力を活かして約6年間、オランダで過ごします。当時、オランダ生活を送る中で日本で始まった地域おこし協力隊制度。早織さんにとってご縁のある尾鷲市でも、地域おこし協力隊員が活動していることを知ります。
—— 早織さん 「過疎化が進む町で活動している人がいるんだって。ウェブページで活動の情報が更新されるのを楽しみに見ていました。」
学生時代は主に文化や社会について学び、「人のいるところで文化が生まれること」に高い関心を抱いていた早織さん。地縁があり、人の暮らしや文化に関わりながら仕事ができる、「三木浦町の地域おこし協力隊の募集」は早織さんにとってまたとない機会でした。
人と人をつなぎ、暮らしの知恵を引き継ぐ仕組みづくり
織屋は、早織さんと研二さんのご夫婦で運営しています。織屋の建物は元々、漁師さんのご自宅で自然と人が集う場所でした。平屋でガラス戸が素敵で、三木浦町の海を一望できる古民家。空き家として売りに出される情報を聞きつけて、建物の購入を決断しました。
—— 早織さん 「織屋はカフェから始めていますけど、次に宿泊や三木浦町暮らしの体験もできるような施設を目指しています。」
群馬県で観光業に従事していた研二さんも、早織さんと共に織屋を作り上げていくことを決意。2021年7月に三木浦町に移住しました。
織屋の裏手には里山があります。織屋をオープンする以前から、早織さんの叔母さんが中心となり里山整備プロジェクトが進んでいました。
荒れ果てた山は早織さんたちも有志グループの手によって、着実に整備された山へと変貌を遂げています。早織さんたちも有志グループの一員として里山を整備する中で感じていた魅力。それが「自然と生まれる人と人の交流」でした。
—— 早織さん 「何かをやっていれば、何してるの?って自然と人が集ってくるじゃないですか。きっかけは何でも良いと思っています。」
早織さんは地域おこし協力隊の任期終了後、マドロスをそのまま自身で運営していく選択もありました。
数ある選択肢の中で、新しく織屋を作り上げる決断に至った理由には、「お食事を楽しめる憩いの場から、何かをみんなで一緒に作り上げていく交流の場を作っていきたい」という思いにありました。
自然と共生する漁師町での暮らし。移住者目線で三木浦町で暮らす中で、早織さんは何気ない住民のひとつひとつの言動には、強い説得力があることに気づきました。
—— 早織さん 「例えば、海上で船の修理をする限られた状況では、漁師さんはあるもので何とかしようとします。あるもので何かを生み出そうとする知恵は、現代社会でとても重要だと思っています。三木浦には、身近にそんな体験があるんです。」
早織さんたち自身も、「暮らしの知恵」を自然と日々意識するようになりました。
里山整備プロジェクトによって山が綺麗になる一方で、新たな課題にも直面しました。里山整備で排出された廃材の処理問題です。きれいに整備された里山の分だけ、積み上がっていく廃材の山。そこで早織さんたちが閃いたアイデアが、「薪ボイラー」の導入でした。
廃材を資源にして、燃料として活用。また、東紀州の仲間と共に生ごみ堆肥づくりにも挑戦しながら、自然環境に配慮した暮らしのモデルを作っています。
—— 早織さん 「織屋では、三木浦の人がすごく大事な要素です。今後、人と人をつなぐコーディネーターの役割を私たちが担っていければと思っています。」
2022年中には宿泊施設としてオープン予定の織屋。また、ゆくゆくは里山や遊休土地を活用して、キャンプや遊びなどを体験できるフィールド作りにも取り組んでいきたい、と早織さんたちは話します。
長い年月をかけて、住民たちが培ってきた暮らしの知恵。人と人との交流によって、暮らしの知恵を絶やさず、未来へと引き継いでいく。そんな場を、早織さんたちは織屋で目指しています。
10年、20年、30年後。三木浦町での暮らし。
里山を登ると、三木浦町を一望できる場所に辿りつきます。整備された山の斜面には、凛とした木々が並んでいます。季節は2月、周りよりも一足早く色づいた梅の枝に、どこからともなく1羽のメジロが飛んできました。
—— 研二さん 「この場所に植えられた梅や桜は、帰港した船から三木浦を眺めてもらうためなんです。」
早織さんや研二さんが移住する、約20年前。叔母さんのアイデアで山に植えられた梅や桜の苗木。梅や桜の苗木はスクスクと育ち、今では綺麗な花を咲かせています。
目を閉じて想像してみましょう。咲き乱れた梅や桜が彩る里山と、漁から帰ってきた漁師たちの船。そして、そう遠くない未来には早織さんや研二さん、三木浦の人や織屋を訪れた人が山の上から手を振っている姿が見られるかもしれません。
—— 早織さん 「10年後はまだまだ体験を生み出していて、織屋を作っている途中だと思います。20年・30年となると、町の人口がどうなっているか。考えすぎず、織屋を作る過程の中で思いを形にしていきたいです。」
人口約500人の漁村に溶け込み、人と人をつなぐ憩いの場であり交流の場「織屋」。町で唯一の飲食店が閉店したことをきっかけに、つながったご縁の先に、早織さん夫婦がいました。