半世紀前の漁村の姿
2022年2月の1週間、三重県志摩市大王町の波切コミュニティーセンターで、写真展「丘端(おかばな)の記憶 波切の暮らし写真展」が開かれた。
展示されたのは、志摩半島有数の港を持つ漁村で、白亜の灯台が立つ岬の名勝でも知られている波切地区の写真37点。いずれも30年前から50年ほど前を写したもの。
モノクロや色あせたカラーのプリントが、年配者たちの思い出を鮮やかによみがえらせた。
「ほんまに懐かしい、ずっとここにいたい」と帰るのを惜しむ声を聞いた。対照的に、何かのプレッシャーを感じて「どうしよう・・・」と心の内につぶやいた現役世代もいた。
漁村の写真を残すこと、それを見ることの意味を考えながら、取材を始めた。
古い写真のデジタル化
会場に展示された写真は、全てフィルムからスキャンした写真のプリント。
もとのフィルムは、志摩市と隣接する鳥羽市の市立海の博物館が所蔵している。1971年の開館以来、展示の準備や調査のために撮影された。
これらのフィルムを、三重大学の地域拠点の一つである伊勢志摩サテライト海女研究センターがデジタルアーカイブ化している。画像の記録を劣化から保護し、活用しやすくするためだ。画像とともに撮影の場所や日付、解説文もデータ化している。
撮影からかなり時間が経つため、内容の確認に苦労をすることもありつつ、これまでで8千枚以上のデジタル化を済ませた。
波切で展示したのはその一部。撮影地での写真展は、今回で3回目となった。
海女研究センターにとっては、「地域への恩返し」で、かつ、思わぬ情報を得るチャンスでもあるそうだ。
海女研究センター職員崎川由美子さんは、センターの構成員で海女や漁村集落を調査している吉村真衣三重大学人文学部助教とともに、来場者のおしゃべりに耳を傾けていた。
崎川さんは今回、“丘端(おかばな)”についての生の声を得られたのが貴重だったと話す。
丘端は、波切の独特の言葉のようだ。かつて志摩市立歴史民俗資料館の館長をしていた崎川さんも、一冊の本で知るのみだった。
その本、建築家森俊偉氏の昭和52年の著書※では、丘端という言葉の意味を、「現在では,丘の端っこの展望の開けた高台」「さらに老人たち等が集まりたむろし談話している場所という意味をも同時に内包」と定義している。
崎川さんたちは今回、会場に足を運んだ86歳の女性から、丘端の一つとされるヤマサキと呼ばれた場所のことを聞き取ることができた。
「おばあさんたちがお菓子を持ち寄って集まっていた」「漁から帰ってくる家族の船を見た」という内容だった。
今の写真を30年後に
写真展は、波切自治会の協力もあって実現した。コロナ禍もありイベントの集客が難しい中で、地域内での告知が熱心にされた結果、7日間で267人の来場者を集めた。
終了の翌日、近所の男性が会場の片付けの手伝いに駆けつけた。
その男性、坂中信介さんは、波切で干物店を営みながら市外の学校で美術講師をしている。働き盛りの49歳だ。
写真展の感想を尋ねると、坂中さんは、「どうしよう、と思ったのが最初です」と意外な言葉で切り出した。
「子供の頃の懐かしさはありましたが、それより、どうしたらええんやろうって。今の町の写真を、同じように30年後に自分たちで見て、良かったなって思えるのか・・・」
多くの漁村に共通する課題だが、波切でも若者の流出が止まらず、地域の担い手が不足している。町中で商売を続けていくこと、景観を維持すること、昔ながらの伝統を守っていくことが、年々、難しくなっている。
そんな中で、坂中さんは、地元の広い世代の仲間たちとともに、ボランティアで草刈りや廃屋の撤去などに取り組んできた。昨年には一般社団法人じゃまテラスを設立して代表となり、春から秋にかけて、町中での軽トラ市を定期開催した。
漁村としての波切の歴史は古く、特にカツオ漁も沿岸漁業も好調な昭和の時代には、大いに繁栄した。また、平成の初めにかけては伊勢志摩観光のハイライト・大王崎を目がけてバスが列をなし、旅館も土産物店も町中の商店街も賑やかだった。
今回の写真展では、そんな良き時代の記憶から元気をもらった年配者がたくさんいたようだ。
坂中さんにとってもそれはうれしく、「活気があった時代をみんなで見て、考えるきっかけになった」と前を向いていた。
たまり場の変化
写真展を受けて、小さな動きがあった。
坂中さんたちは、かねてから漁港前の空き物件を改装して、出入り自由の交流スペースを開設しようと計画していた。
そこに今回、展示されていた写真パネルを飾りたいという。
あの会場で、お年寄りと崎川さんたちが打ち解けて話していた様子が、坂中さんには予想外だった。
波切はシャイな人が多く、外の人とすぐに交わる土地柄ではないと思っていたそうだ。
写真の力が心を開かせたのかもしれない。
海女研究センターにOKをもらって、「観光資源としてはもちろん、古い写真を見て思い出話ができるサロンにできたら」と意気込んだ。
ところでサロンといえば、平たくはたまり場のこと。さきほど挙げた丘端を連想する。
建築家の森氏の著書を再びひもとくと、丘端について、「ここで主役を演じているのは,いずれも,老人たちである」とし、「また,通りかかった主婦や漁師や夕涼みに出てきた若者たちをここに引きつける役割りを果たしている」と説明し、「つまりコミュニケーションのきっかけを生む要として働いているともいえるわけである」と考察している。
本の出版は45年前で、坂中さんは、丘端という言葉は知らなかった。
15年前までは網元として漁師もしていて、証言のあったヤマサキの丘端は、天候や潮の流れを見る場所と認識していた。ヤマサキの丘端の上にある建物は、その当時、老人集会所となっていて、お年寄りたちが建物の中で囲碁や将棋を打っていたそうだ。
その集会所も、今では玄関を閉じていて、住宅地図から名前が消えている。
フィルムと記憶の期限
海女研究センターの崎川さんは、「写真を前に、みんなで話をする場ができてよかった」とほっとしていた。「もう少し遅かったら、間に合わなかったかもしれない」とも。
間に合わなくなるものの一つは、フィルムに記録された像だ。
光による退色や熱と湿度による変形、カビの広がりは、管理の状態にもよるがいずれは避けられない。その点はデータ化すれば解決し、プリントやネットでの活用もしやすくもなる。
もう一つ、記憶にも期限がある。
イベントや観光名所を残した写真は多いが、それを見て、フレーム外の風景、心の動き、その時代の暮らしなどを思い出して語れる人は、年々、減っていく。
崎川さんは、主にセンターの部屋でフィルムを整理をしているが、ときに現地に足を運んで調査をすることもあるという。
過去と未来と人をつなぐ
活気にあふれていた漁村は、空き家が増えて様変わりし、住民の孤立が心配されている。
過去を取り戻すことは難しいが、よき時代から元気をもらい、心を温め合う場はあってもいい。
年配者同士だけでなく、若い世代や観光客との会話から、未来へのヒントが見つかるかもしれない。
坂中さんは、こうも語っていた。
「新しいハコモノはもういらんと思う。伝統行事で消えていいものは一つもないけど、芯になるものが変わらなければ、形は今の都合に合わせて変えてもええんかなと思う」
新しいたまり場に古い写真を掲げて、波切の人々は、誰と交わり、どんな話をするのだろう。
三重大学伊勢志摩サテライト海女研究センター
- 住所
- 〒517-0025 三重県鳥羽市浦村町1731-68
- 電話
- 059-231-9195
- ウェブサイト
- https://amakenkyucenter.rscn.mie-u.ac.jp/