鹿児島県大隅半島の南東部に位置する内之浦港。沖合を流れる黒潮と、急峻な山々から海へ流れ込む栄養分により、大型定置網漁の盛んな地域となっている。
ここ内之浦で、激動の時代を生き抜いてきた、三代つづく漁師一家がいる。
有限会社昌徳丸。沖合で行う中型まき網と、沿岸で行う大型定置網の二つの部門があり、全国的に見てもそのような事業形態は珍しい。
今回のテーマは、“これからの漁師を考える”。
漁獲量の減少や魚種の変化、資源管理の強化、海洋プラスチックごみ問題、SDGs、そして深刻な人手不足。課題だらけの水産業界で、これから先の漁師はどうあるべきか?
これまでの厳しい時代を生き抜いてきた漁師の話をヒントに、皆さんと一緒に考えてみたいと思う。
有限会社昌徳丸で2代目として社長を務める柳川哲郎さんにお話を伺った。
昌徳丸のはじまり
会社として創業したのは平成8年だが、それ以前から哲郎さんのお父さんが漁業を営んでいたそう。
「最初は小さな漁船でマグロ延縄漁、棒受け網漁などをしていたんだけど、知人のまき網漁船に乗った時に、独立したいという気持ちが芽生えたみたいだよ。」
哲郎さんのお父さんがまき網漁船を購入し、独立した昭和47年頃、哲郎さんは中学生だった。当時、日本初の1万円札に描かれた聖徳太子から、その船の名前を「昌徳丸」としたらしい。
部門が二つへ
哲郎さんは高校卒業と同時にまき網漁船に乗り、お父さんからまき網漁を教わった。
ここには書けないエピソードが沢山あるが(笑)、哲郎さんのお父さんはとんでもなくパワフルで野心家だったとのこと。
哲郎さんは早百合さんと結婚後、20代半ばの頃に漁労長となった。それと同時に、哲郎さんのお父さんはまき網漁船を降り、大型定置網漁を始めることになる。
その後、大型定置網を哲郎さんの息子さん(長男)が引き継ぎ、昌徳丸は部門がまき網と定置網の二つになった。
漁師の道を選んだ理由
高校を卒業してから50年近く、漁師として、経営者として人生を歩んできた哲郎さん。どうして漁師になろうと思ったのか、その理由を聞いた。
「小さい頃から、心の底にあったんだと思う。」
まずこの一言を聞いて、筆者はとても深い意味を感じた。
「自分はなんも自信がなくて。勉強も苦手で、そんな自分に何ができるんだろうって。だから、小さいころから周りの人ができることを真似して自分にもできることを探してきた。それで、高校を卒業するとき、自分には船しかないと思った。学生の頃も手伝いで船に乗っていたんだけど、酔って吐いてばかりでね。だけど、高校を卒業して船に乗った最初の日、全く酔わなかったんだよ。やっぱり人間って、よっしゃって覚悟を決めたら酔わないんだなって。」
例えば就きたい職業・やりたいことが分からなくて悩んでいる人がいるなら、この哲郎さんの言葉はとてもヒントになると思った。
幼いころから心の底にあるものと、自分の周りにいる人たちの型にはまってみること。そこから自分のやりたいことや進みたい道が見えてくるのかもしれない。
家族との時間
まき網漁船の漁師は1年間のうち多くを海上で過ごす。そんな哲郎さんと、哲郎さんを支える妻の早百合さん。
休みの日はお金と時間をかけて遠出をするよりも、子供たちと一緒に近くの山にある公園へ行き、早百合さんが作ったお弁当を食べ、哲郎さんが作った凧をみんなで飛ばして遊んだことが何よりも幸せだったとのこと。
自分が作ったものを食べ、自分が作ったものが風を受け飛ぶことにどんなに感激を覚えるのか。
「そうやって、自分たちで、夫婦で作ったもので育ててきた。」
それが今でも自分たちや子供たちの中に活きているという。
息子さんたちも漁師の道へ
最盛期には内之浦に5ヶ統あったまき網漁船。今では昌徳丸の1ヶ統のみだ。そのまき網漁船には二人の息子さん(次男と三男)も乗っている。
「漁業じゃなくても、なんでも好きなことを自由にやってみれ。好きにしていいんだよ。責任はおいが取っで(責任は俺が取るから)。」
哲郎さんは子供たちに、好きなことをしろと言った。
そう言われて育った息子さんたちは漁師の道を選んでいる。
船も網も人にも、とにかくお金のかかる漁業。そんな漁業の世界で、会社として激動の時代を経営してきた哲郎さんと早百合さん。ここには書ききれない苦労話の数々。
三人の息子さんはそれぞれ、そんな哲郎さんの背中を見て育ち、想いを受け継ぎ、協力しながらまき網漁と定置網漁の未来を模索している。
これからの漁師を考える
「魚が昔より減ってきて、これから先どうなるのかなって思ってる。それもだけど、魚より人を確保するのが難しい。自分は人を見つけてくるのは苦手。だけど息子たち三人が見つけてきてくれる。」
技能実習生制度の活用や未利用魚のEC販売、インターンシップの導入、SNSによる情報発信、漁網リサイクル・里海づくりの検討など。息子さんたちは次の時代へ向けて動き始めている。
「今、働き方改革も言われているけど、私たちも時代に合わせていかないといけない。昔は黙っていても人は来てくれたけど、今はそうじゃない。人材をどうやって確保するか。」
漁師は誰でもできるわけではない。近くで見ていて、はっきりとそう思う。体力も根性も必要だ。
それを踏まえて、海と天候に合わせて暮らし、自然を享受する漁師という職業には「こんな生き方もできる」と、今の若者たちへどうやって提案するのか。
昌徳丸の船路は続く。